あの日を忘れない
2011年3月11日14:46 私たちは職員室で仕事をしていたり、生徒と一緒に部活動をしていました。
突然の地震は今までに経験したことのないほどの大きな揺れが長く続き、誰もが尋常ではない危機感を感じ、津波を予測しました。
すぐに、津波警報が発令され、それは大津波警報に変わりました。3mの予測が10mになり、10mを超える大津波と刻一刻と規模が大きくなり続けて街中にサイレンと緊急放送がけたたましく鳴り響き、何回も何回も繰り返されました。
校地内の生徒を全員集めて、高台にある河南中学校にみんなで避難しました。余震が続く中、電気もなく(3日目に復旧)、食べ物も水もなく寒く凍える体育館で不安な夜を過ごしました。
翌日には早速、何人かの先生で水産高校に戻り食物科から米と鍋とコンロを、海洋技術科からはりあす丸の毛布と食品コースの缶詰、栽培コースのポリタンクを持ってきて避難所に提供しました。
2日目の午後あたりから自衛隊や警察の緊急支援が始まり、その後世界中からのご支援を受けて今に至っています。
追悼の意味を込めた半旗の横には生徒の活躍をたたえる垂れ幕が。大震災を経験した生徒はもう29歳。
先日卒業した3年生は当時小学1年生。大津波という災害を乗り越え、今は新型コロナ感染症という災いを乗り越えようとして生徒たちは活動しています。
大震災翌日、校庭横の道路には船や車が流れ着き、グランドには大量のヘドロが残されました。
ヘドロを取り除き、新しい土を入れて現在のグランドは復旧しました。
どんなことが起ころうとも、その状況の中で最善を尽くす。
津波でお亡くなりになった皆様のご冥福をお祈りし、今を生きる私たちは常に前を向いて進みたいと思っています。